2014/05
世界で活躍する女性科学者たち 君川 治


【女性科学者・技術者シリーズ19】


向井千秋記念こども科学館

 未だ4月なのに半袖で良いほど館林は暑かった。館林はその昔、将軍綱吉の出身地の城下町で街の所々に古い家が残っている。向井千秋記念こども科学館は展示コーナー、プラネタリューム、催し物コーナーからなり展示は「向井千秋さんと宇宙」である。向井千秋がスペースシャトル・コロンビアに搭乗してから今年で20年になる。

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 女性が輝く日本をつくるための政策として安倍晋三内閣は2013年、女性管理職の増加を掲げ、2020年までに社会のあらゆる分野で、指導的地位に女性が占める割合を30%以上とするとしている。
「全上場企業において、積極的に役員・管理職に女性を登用していただきたい。まずは役員に1人は、女性を登用していただきたい」―月19日、安倍晋三総理はこう、経済3団体に要請した。しかし政治のすることはお願いではなく、女性が活躍できる基盤を整備することだろう。
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世界が認めた日本女性100人
 Newsweek日本版2006年6月28日号に創刊20周年特別企画「世界が認めた日本女性100人」が掲載されている。小説家や音楽家などの芸術・文芸分野、スポーツ関係、政治・外交官、企業経営、弁護士などなどの中に、科学技術関係の研究者として10名が載っている。
 その10名とは、分子生物学者・岡崎恒子、栄養学者・岸田袈裟、WHOメディカルオフィサー・進藤奈邦子、理化学研究所研究員・北爪しのぶ、暗号化技術開発者・宮地充子、宇宙飛行士・向井千秋、遺伝学者・太田朋子、病理学者・澤口聡子、物理学者・米沢富美子、建築家・妹島和世である。宇宙飛行士の向井千秋以外は殆ど知られていないと思う。
 国内にも女性の活躍を顕彰する勲章や褒章がいろいろある。
 エイボン女性大賞―― 化粧品会社が日本に進出して1979年に設けた賞で、科学分野では本稿に登場した猿橋勝子、香川綾、上記100人の太田朋子、米沢富美子が受賞している。
 ロレアル−ユネスコ女性科学賞―― 化粧品会社ロレアルが世界5大陸の女性科学者を毎年5名表彰するもので、生命科学分野と物理科学分野の科学者が隔年表彰される。賞金は10万US$である。日本女性では上記100人にも登場する岡崎恒子(2000年)、米沢富美子(2005年)の他、小林昭子(2009年)黒田玲子(2013年)が受賞している。
 猿橋賞―― 上記100人では太田朋子(第1回)、米沢富美子(第4回)が受賞している。
 日本女性科学者の会表彰―― 功労賞と奨励賞があり、功労賞は向井千秋、米沢富美子、奨励賞は北爪しのぶ、澤口聡子が受賞している。


日本女性科学者らはこんな世界的活躍を
 太田朋子(1933〜)は愛知県三好市生まれ。東京大学農学部に入学し1956年に卒業。ノースカロライナ州立大学に入学してPh.Dを取得して帰国し、国立遺伝学研究所の博士研究員となって木村資生に師事した。木村資生(1924-1994)は分子進化の中立説で有名な遺伝学者である。太田は木村の指導により、恩師の説と少し異なる「分子進化のほぼ中立説」を提唱する。木村の研究室は自由闊達な研究の雰囲気があり、異なった説も受け入れてくれたという。
 太田朋子は「分子レベルにおける集団遺伝学の理論的研究」により1981年に第1回猿橋賞を受賞した。さらに1985年に学士院賞を受賞し、2002年に文化功労者に選ばれている。
 岡崎恒子(1933〜)は名古屋市生まれ。小学校(当時は国民学校)6年のとき終戦となった。それまで使用していた教科書を先生の指導で墨で塗りつぶす作業で、価値観の変化に驚かされたと言っている。戦後、アメリカから入ってきた抗生物質により多くの病気が治るようになり、外科医の父親から顕微鏡の中の、抗生物質が細菌の増殖を妨げる様子を見せられて生物学への興味が増したという。
 1952年に名古屋大学理学部に進学した。「変わらない真実の世界」を求める気持ちが理学部専攻にも働いたと言っている。1953年にDNAの二重らせん構造が発表されて、遺伝情報の研究に興味を抱くようになった。1956年大学院生の時、3年先輩の岡崎令治と結婚した。2人は1961年よりスタンフォード大学に留学してコーンバーク博士(後にノーベル医学生理学受賞)の下でDNAの研究を始めた。
 帰国後も研究を進め、「オカザキ・フラグメント」と呼ばれるDNA合成を解き明かした。しかし広島の被爆者である夫君は、白血病で44歳の若さで亡くなった。岡崎恒子は子育てと研究に苦労しながらも、オカザキ・フラグメントを合成する物質(プライマー)の分離と構造解析に成功した。名古屋大学教授として分子生物学の発展に貢献し、この成果により2000年にロレアル−ユネスコ女性科学賞を受賞し、さらに紫綬褒章も受章した。
 向井千秋(1952〜)の生まれは群馬県館林市。弟が体が悪くて苛めにあったりしていたことから医者になる夢を描き、救急医療と心臓外科の専門医となった。まだ宇宙飛行は米ソの開発事業と思われていた1983年、「宇宙飛行士募集、軌道上で科学実験」の新聞記事を見て31歳で応募、1985年に宇宙飛行士第1期生に採用された。
 向井千秋の仕事の信念は「自分を信じて可能性にかけるべきで、性別・国籍・人種・宗教・年齢に縛られることはない」という。
 1994年にスペースシャトル・コロンビアに搭乗し、材料科学、医学、ライフサイエンス、理工学分野の81の実験を行い、その成果は高品質半導体製造や蛋白質結晶の成長などに役立ったという。1998年にはスペースシャトル・ディスカバリーにより2回目の宇宙飛行を行い、宇宙飛行士の身体に起こる変化の医学的調査を行い、特に筋肉や骨への影響調査を行った。
 石田瑞穂(1943〜)は長野県飯田市の生まれ。お茶の水女子大学理学部物理学科進学し、卒業後は明治大学工学部物理学科の助手に採用された。更に東京大学大学院地球物理学科で地震学を専攻し、1960〜1970年代に始まったプレートテクトニクス理論で理学博士となる。
 1978年より東海地方と南関東地方の地震観測網が整備され、この観測データによりプレート構造を研究して猿橋賞、科学技術長官賞を受賞した。1995年から1999年まで女性として始めて地震学会会長を務めている。
 米沢富美子(1938〜)は大阪府吹田市の生まれ。祖母・母親と妹の、経済的には苦しい暮らしの下、成績優秀な富美子は進学校府立茨木高校から京都大学理学部へ入学し、専門分野の選択で湯川博士に憧れて物理学を専攻した。物性物理、特にアモルファスの研究を行い、1966年に理学博士の学位を取得した。その後、東京教育大学の研究員、東京工業大学助手、京都大学基礎物理学研究所助教授を経て、1983年に慶応義塾大学理工学部教授となる。
 大学院生のとき、大学の先輩米沢允晴と結婚した。大手証券会社勤務の夫君に同行してイギリスのキール大学、ニューヨーク市立大学などの客員研究員として研究を続けている。米国へは6歳、5歳、2歳の子連れ留学し、研究と子育てを両立させた。
 研究分野は計算物理学、不規則系物理学と言われ、多くの研究論文を発表し、国際学会でも活躍、共同研究プロジェクトをリードした。1996年に女性として始めて日本物理学会会長に選出され、女性の科学賞を数多く受賞している。

 音楽家、スポーツ選手、画家、小説家、デザイナーなど個人の能力を発揮して世界で活躍する女性が多くなっているが、組織を牽引する分野での活躍は未だ少ないのも事実である。
 しかし、米沢富美子や石田瑞穂など、男性中心の学会会長で女性会長が生まれており、今後益々女性が活躍することを期待したい。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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